LOGINレインが去ってから三日後、エリナは本格的に薬草の研究を始めた。
といっても、材料も道具も最低限しかない。市場で買える薬草の種類は限られているし、専門的な文献など存在しない。この世界の医療は、治癒魔法師と口伝の民間療法が二本柱で、体系化された知識はほぼ皆無だ。だからこそ、やる価値がある。
エリナはまず、市場で手に入るすべての薬草を少量ずつ買い揃えた。一種類ずつ匂いを嗅いで、触って、舌先で少しだけ舐めて、前世の記憶と照合する。完全に一致するものばかりではない。この世界固有の植物も多い。でも形状や成分の傾向から、効能を推定できるものは多かった。
木の板に炭で書いた分類表が、台所の壁を少しずつ埋めていった。
問題は、知識を実証する相手がいないことだった。 実験するには、実際に怪我をしている人間が必要だ。でも「怪我人を探す」というのは、自分では動けない。 助けが来たのは、意外な方向からだった。ある朝、長屋の大家——初老の女性でナンシーという——がエリナの部屋の前に立っていた。普段は家賃の話しかしない人だ。
「エリナちゃん、ちょっといいかい」
声がいつもと違った。硬い。
「隣の部屋のクラウスが、三日前から熱を出して寝込んでる。治癒魔法師は呼べないし、薬屋の薬を飲ませても下がらない。あなた、石鹸で病気を治したって話が出てるけど……何か知らないか?」
エリナは即座に立ち上がった。
「見せてもらえますか」
クラウスは三十代の男で、荷運びの仕事をしている。隣の部屋に入った瞬間、エリナは状態を見た。
顔が赤い。汗をかいている。でも手足は冷えている。布団を顎まで引き上げていても、ときどき震える。 悪寒と発汗が交互に来ている。発熱のパターンは感染症。喉と鼻の症状がなければ、傷口からの感染が疑わしい。「足を見せてもらえますか」
クラウスが弱々しく布団をめくった。左足の甲に、包帯が巻かれている。
「いつ怪我をしたの?」
「四日前……荷物を落として」掠れた声だった。
「最初は大したことないと思ってたんだが」
エリナは包帯を慎重にほどいた。傷口が赤く腫れて、周囲が熱を持っている。膿みかけている。傷自体は深くないが、処置をしないまま数日放置したせいで感染が広がっていた。
処置の順序。まず傷口の洗浄。次に消毒。包帯の交換。そして発熱を下げるための薬草。 エリナは立ち上がって、ナンシーに言った。「お湯を沸かしてください。あと石鹸と、できれば白い布を。私は薬草を取ってきます」
ナンシーが目を丸くした。
「あなたが治せるの?」
「保証はできない。でも今より悪くはしない」
それだけ言って、部屋を出た。
台所に戻って、薬草の束を三種類選んだ。一つは前世でいうカモミールに近い花。抗炎症作用がある。もう一つは苦味の強い葉——解熱作用が期待できる。三つ目は、先週採取したばかりの樹皮。煮出すと消毒に使える成分が出る。
さらに蜂蜜を少量。これは傷口の保護に使う。蜂蜜の抗菌作用は前世でも古くから知られていた。 お湯が沸いたところに、樹皮を入れて煮出す。五分待つ間、カモミール系の花と苦い葉を別の鍋で弱火にかけた。こちらは飲み薬にする。 全部を持ってクラウスの部屋に戻った。「痛いかもしれないけど、我慢して」
クラウスが頷いた。
煮出した樹皮液を冷ましてから、傷口に注いだ。クラウスが歯を食いしばった。エリナは焦らず、丁寧に膿を洗い流した。石鹸で手を洗った白い布で傷口を拭い、蜂蜜を薄く塗って、新しい布で包んだ。 次に飲み薬だ。苦い葉とカモミールを煮出した液を湯呑みに注いで、クラウスに渡した。「苦いけど全部飲んで。今日と明日、一日三回」
クラウスが一口飲んで、顔をしかめた。
「……苦いな」
「効くものは大体苦い」クラウスがかすかに笑った。それだけで少し顔色が和らいで見えた。
翌日、熱が少し下がった。 二日後、傷口の赤みが引き始めた。 三日後、クラウスが自分で起き上がれるようになった。 ナンシーが、信じられないものを見る顔でエリナを見た。「……本当に治った」
「傷口の感染を早めに処置して、体の抵抗を助けただけ。治したのはクラウスさん自身の体」 「でも薬草の使い方を誰に教わったの。この辺の薬屋でも知らないやり方だった」エリナは少し考えて、答えた。
「自分で考えた」
ナンシーがまた黙った。信じたいけど信じられない、という顔だ。
エリナは構わなかった。信じなくていい。結果だけ見てくれれば。 クラウスの件が長屋中に広まるのに、一日もかからなかった。 三日後には、マルタが知っていた。五日後には、市場の向こう側まで届いていた。「ルシェムに変な子どもがいる。石鹸を作って、薬草で病気を治す。魔法は使えないのに」
噂というのは面白い。最初は「変な子ども」という枕詞がついていたが、一週間もすると「凄い子ども」に変わっていた。人間は結果に弱い。実際に治った人間を目の前にすれば、疑いより信頼が勝る。
エリナはその変化を冷静に観察しながら、同時に次の問題を考えていた。 一人でできることには限界がある。 薬草の種類を増やしたい。でも自分が採取に行ける範囲は狭い。薬草の知識を持っている人間が近くにいれば——その時、マリオが走り込んできた。
「エリナ、ちょっと来てくれ。見せたいものがある」
マリオに連れられて向かったのは、町の外れにある廃屋の近くだった。
そこに、一人の少女が座っていた。年はエリナと同じか少し下くらい。痩せていて、服がぼろぼろだ。でも膝の上に薬草の束を丁寧に並べていて、細い指で葉の状態を確認している。周りには野良猫が三匹、それから見たことのない小鳥が一羽、少女に寄り添うように集まっていた。
「孤児だって」マリオが小声で言った。
「名前も言わない。でもずっとそこで薬草を集めてる。エリナが薬草を使えるって聞いて、連れてきた」エリナは少女に近づいた。少女が顔を上げた。目が大きくて、表情がほとんどない。人見知りというより、人間そのものに慣れていない顔だ。
「名前は?」
少女が黙った。
「言いたくなければ言わなくていい。その薬草、見せてもらえる?」
少女が少し考えてから、膝の上の束を差し出した。
エリナは一種類ずつ確認した。カモミール系、解熱系、それから——見たことのない葉が二種類入っていた。「これ、どこで採ったの」
少女が町の外の方向を指した。
「効能は知ってる?」
少女がこくりと頷いた。それから地面に指で何かを書いた。
文字ではなく、絵だった。葉の形と、それを使った時の効果を表す簡単な図。傷口に塗る場面と、飲む場面が、素朴だけど正確な線で描かれていた。 エリナは絵を見て、静かに驚いた。 この子は、独自に薬草の効能を把握して、分類している。文字ではなく絵で記録している。でも情報の整理の仕方は、むしろ私より細かい。「一緒にやってみる気はある? 薬草を集めてきてくれれば、私が加工して売る。売れた分から取り分を渡す」
少女がエリナの目を見た。
長い沈黙があった。猫が一匹、エリナの足元に寄ってきて、くるりと丸まった。 少女が、ゆっくりと頷いた。「名前、何にしようか? 呼び名くらい決めた方が便利だから」
少女がまた地面に指を走らせた。今度は文字だった。一文字だけ。
ルナ。
エリナは頷いた。
「ルナ、よろしく」
その夜、エリナは帳簿の隣に新しい板を一枚置いた。
薬草の分類図だ。今日ルナが見せてくれた二種類の新しい葉の情報を加えて、既知のものと並べた。炭で丁寧に書く。葉の形、採取できる場所、効能の推定、加工の方法。 マリオが輸送と人脈を持ってきた。 ルナが薬草の知識を持ってきた。 ゴードンが来るのはまだ先だろうが、そういう人間がいることはわかった。チームになっていく。
一人でできることは限られている。でも一人一人が違うものを持っていれば、それを組み合わせた時に出来ることは、一人の何倍にもなる。前世でエンジニアとして学んだことの中で、一番大事だったのはその原則だった。
技術より、組織だ。
板を壁に立てかけて、エリナはランプの火を見た。 レインが『また来るかもしれない』と言っていた。消毒液ができたら見せてくれと言っていた。 消毒液、もうすぐできる。 会った時に何を話すかを考えて、すぐに止めた。別に何も準備する必要はない。話したいことは常にある。それだけで十分だ。エリナ・アッシュフォード、七歳。
仲間が増えた。知識の地図が広がった。
王都はまだ遠い。でも今日より、確実に近い。 ランプの火が、静かに揺れた。レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて
王都から戻って一週間が経った。 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。 完成までにあと十日ほど。 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。 炭で大きく書かれた名前が、三つ。 マグダ・トーラン(ヴァロウ町) ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」「人柄は?」「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」 マリオが指で名前を叩く。「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」「もう一人は?」「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」 エリナは三つの名前を、じっと見た。「三人とも、人物像が違うね」「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」「いい判断」「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」「ちゃんと相談したのが、いい判断」「言い方」 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。「順番は?」「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」「じゃあ、明日出発
ルシェムへ戻る道は、来た時とは少し違って見えた。 同じ街道、同じ宿場町、同じ景色。 なのに、馬車の窓から見える木々の色も、すれ違う旅人の顔も、どこか違って感じる。 変わったのは景色じゃなくて、自分の方なんだろうな。 エリナは、膝の上で軽く手を組みながら、そう思った。 王宮で何を語ったか。国王とどんな約束をしたか。フィオナを王都に残してきたこと。レインと交わした、ささやかな約束。 その一つ一つが、自分の中の重心を少しずつ動かしている気がした。「眠くないか?」 馬車の中で、向かいに座るゴードンが声をかけた。 今、馬車にいるのはエリナとゴードンの二人だ。レインは王都の郊外で別れ、学院へ戻った。フィオナは王都に残っている。「眠くはない」「考えごとですか」「整理してる」「無理はなさらず」 ゴードンは短く言って、また黙った。 この男の沈黙は心地よい。必要な言葉だけを置いて、あとはそっとしておいてくれる。 エリナは膝の上の革鞄を軽く撫でた。 中には、王宮からの正式な書状の写しと、フィオナとレインに書いた最初の手紙の下書きが入っている。 ルシェムに着いたら、すぐに動かないと。 頭の中で、もう次の段取りが回り始めていた。 ルシェムの町が見えてきたのは、二日目の夕方だった。 石壁とも呼べないような低い土塀。古びた門。市場の端に立つ木製の看板。王都の壮大な城壁を見た直後だと、すべてが妙に小さく、けれど不思議と懐かしく感じられる。 ハンスの息子のマリオが、町の入り口で待っていた。 馬車を見つけた瞬間、彼は手を大きく振った。「エリナーっ! ゴードンさんっ!」 声が、思いきり大きかった。 馬車が止まるのを待たず、マリオは横を走ってついてきた。「ただいま」 エリナが窓から声をかけると、マリオがニッと笑った。「おかえり。なんかすごいことになったって、本当か?」「誰から聞いたの」
王宮からの帰り道、足が地に着いていないような感覚が、しばらく続いた。 国王との謁見。父の名が再び玉座の前で語られたこと。一年という期限付きの「任」。魔法省、クロヴェル、学院、王宮——それらが一気に現実の輪郭を持った。 エリナは、王都の石畳を踏みしめながら、自分の足音だけを数えていた。 一、二、三、四——。 数えることで、頭の中のざわめきを整理しようとしていた。 王都での滞在は三日だけ、と決まっていた。 一日は謁見。残り二日は、情報収集と今後の段取りに使う。 王宮を出た一行は、まず王都中心部の小さな宿に入った。アルバの配慮で、比較的静かな場所が選ばれている。広くはないが、四人で一部屋を使える程度の余裕はあった。「まずは整理ね」 宿の一室に入るなり、フィオナがテーブルに紙と炭を広げた。「一年でやることを、全部出す。優先順位をつけて、誰が何をやるか決める」「了解」 エリナも椅子に座り、紙の前に身を乗り出した。 レインは壁際に立って腕を組み、ゴードンは窓のそばで外を眺めながら耳を傾ける。「一年の任務、ざっくり言うと三つ」 フィオナが指を立てる。「一つ。ルシェムとベルナ、その周辺三町での石鹸と薬草薬の普及拡大。二つ。王宮に提出するための『数字と報告』の仕組みづくり。三つ。クロヴェルの妨害への備え」「それぞれ、細かく分解する」 エリナが引き継いだ。「一つ目は、単純に量を増やすだけじゃ足りない。使い方の教育、配布ルートの整備、価格の調整、在庫管理……」「二つ目は、今までの帳簿を『王宮向けの言葉』に翻訳する作業ね」 フィオナが言う。「単なる売上表じゃなく、『どれだけ人が助かったか』を数字で見せられる形にしないと」「三つ目が、一番読みにくい」 エリナは少し眉をひそめた。 「クロヴェルがいつ、どの程度まで動いてくるか、見通しが立ちにくいから」
玉座の間は、思っていたより静かだった。 もっと人がいて、ざわめきがあって、豪華絢爛な音楽が流れているのかと思っていた。だが現実は違った。高い天井に反響するのは、歩く音と衣擦れの気配だけ。 赤い絨毯が、まっすぐ玉座へと伸びている。 左右には、重厚な柱が等間隔に並び、その間に王家と歴代の英雄たちのタペストリーが掛けられている。光は高窓から差し込み、床の大理石をほのかに照らしていた。 そして、その最奥。 ひとつだけ高く据えられた椅子。 国王の椅子。 そこに座る人物を、エリナは見た。 ヴァルデリア国王——ラオネル・ヴァルデリア三世。 四十代半ばほどだろうか。鋭さよりも、どこか疲れを帯びた穏やかな目をしている。だが、穏やかさが弱さでないことは、向き合った瞬間にわかった。 人をよく見ている目だ。 玉座の右側には、王宮魔法師団の長と思しき老人が立ち、左側には数人の高官たちが控えている。その中に、見慣れた紋章をつけた男の姿があった。 クロヴェル侯爵。 エリナは、その視線を一瞬だけ感じた。冷たい、というより無色の目。対象を評価し、分類し、その上で切り捨てる目。 見ている。 でも、今はそちらを見返さない。 エリナは絨毯の上を歩いた。両脇をフィオナとレインが固め、少し後ろにゴードンが続く。途中でアルバが横に退き、一行を見守る位置に移動した。 決められた位置まで進み、エリナは跪いた。「アッシュフォード商会、実務責任者——エリナ・アッシュフォードにございます。陛下のお召しにより、参上いたしました」 声は震えなかった。 震えさせないように、喉と舌の動きを意識した。 沈黙が、一拍。 そして、国王の声が降ってきた。「顔を上げなさい、エリナ・アッシュフォード」 落ち着いた、低い声だった。 エリナはゆっくりと顔を上げた。 国王ラオネルの目が、真っ直ぐこちらを見ていた







